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山手線ゴー・ラウンド ―鶯谷―

 花が咲くにはまだ早い。
 由利花は早朝の鶯谷駅ホームで呆けている。何をするでもなく、ベンチに座ってただ風景を見たり、停車してはまた去ってゆく電車を見送る。
 彼女には、かつてささやかな夢があった。五年前の春に上野支店へ配属され、毎朝のように眺める鶯谷の風景から思いついたものだった。恋人と上野で食事を した後、鶯谷のラブホテル街の中では有名な一流ホテルで朝まで一緒に過ごし、次の朝は出勤前に二人で上野公園や寛永寺あたりを散策する。ただそれだけの夢 だった。季節は当然、春が良い。上野桜木町という地名に相応しく桜で埋め尽くされた町を、朝から堪能できる恋人がほしかったし、そういうことの出来る相手 こそが自分の運命の人だと思っていた。

 そんなことを夢見ている間に一年目の春は終わってしまったが、その年の秋に由利花は一人の男と出会った。それが笹原だった。彼は上野支店に異動してきてすぐ、由利花を食事に誘った。
 冬が来る頃には、二人は鶯谷のホテルで朝まで過ごすような関係になっていた。読む本や観る映画、食べるものの趣向など、二人の気持ちはぴったりと合っていた。春が来たら、きっと同じ気持ちで一緒に桜を見ることが出来る人だ。由利花はそう思い、笹原に溺れていった。
 笹原には妻がいた。が、若くして結婚した割にはいつまでも子供が出来ず、妻への愛情も薄れてしまっていた。そんな頃に由利花と出会い、やはりそれを運命 のように感じたのか、彼もまた由利花に溺れた。彼が由利花と一緒になりたいと考え、妻に離婚を切り出すまでに、それほど時間は掛からなかった。
 離婚の件ではかなり揉め、彼らが二人でゆっくりと過ごす時間を持てないうちに、二年目の春は終わってしまった。夏前にはなんとか妻との話し合いも落ち着き、笹原と由利花は一緒に暮らし始めた。
 由利花が妊娠していることが解ったのは、その年の初秋だった。笹原は大変喜んだし、由利花も幸せな気持ちのまま会社を辞め、正式に入籍も済ませ、家庭に入った。そして三年目の桜の季節には、由利花は健康な男児を出産した。出産前後は、桜など見る余裕はなかった。
 笹原は待望の子供をとても可愛がり、由利花は家事と子育てに追われながらも、絵に描いたように幸せな家庭には充足感を得ていた。彼らの息子は、そんな幸 せの中ですくすくと育ち、来月には三歳になる。何も問題はなかった。何も問題はないのだけれど、由利花はふと、結局のところ五年前から桜など見ないままこ こまで突っ走ってしまったことに気が付いた。

 ある晴れた早朝、由利花は朝早くに家を抜け出して、山手線に乗って鶯谷まで向かった。ホームから周りの景色を眺めたが、三月中旬の東京では、桜などどこ にも咲いていなかった。時折、近くのホテルで朝まで過ごしたらしいカップルを目にした。彼らが幸せそうな顔をしているかどうかは解らなかった。おそらく自 分のほうが幸せな顔をしているだろうと由利花は思う。夫は優しく、息子は可愛い。
 ただ、花が咲くには早かった。
 今見ているこの風景のように蕾だった自分は、そのまま実を結んでしまったのではないだろうか。それでも良い実はついたかもしれないけれど、自分は花を咲かせず、一番きれいな時期をのがしたままなのではないだろうか。
 由利花は急に思いついたように立ち上がる。彼女の目の前で、ホームに滑り込んできた山手線が停車し、ドアを開いた。由利花は吸い込まれるように、自分の家とは反対方面に向かう山手線に乗り込んだ。
 どこに行くつもりなのかは、よく解らなかった。ただ、いずれにしても山手線は一周してここに戻ってくるのだから、自分がどこに行って花を咲かせて来ようと問題ないような気もしていた。

上野日暮里



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